・ 千葉県で石器拾い
( Stone Implement Hunting in Chiba , Chiba Pref. )
その当時生まれて間もなかった孫娘が幼稚園を卒園し、小学校に入学する歳になった。卒園式に
出席して欲しい、とお嫁さんから電話があり、夫婦で出かけることにした。興奮して(?)眠れないジー
ジは、3時過ぎに目を覚ましてしまった。高速が渋滞しないうちにと、4時には家を出た。
さすがに夜明け前、高速はスイスイ流れ、8時には千葉県に入っていた。この日、孫娘は幼稚園で、
嫁さんは翌日の卒園式の準備で忙しく、夕方にならないと帰宅できないとメールがあった。
それまで時間があるので、久しぶりに石器拾いを楽しむことにした。
( 2016年3月 観察 )
畑を耕したときに掘り起こされた土が雨にあたったり、風に吹かれたりして、石器が表面に露出して
いることがある。観察方法は、畑の表面を見ながら、くまなく歩き回ると土器や”キラリ”、と
輝く石器に出会えることがある。
鉱物 岩石種 | 観 察 数 ケ (%) | 備 考 | 長野県 2010年3月 | 千葉県 2016年3月 |
黒曜石 | 269(88%) | 36(28%) | 質の良いものと悪いもの混在 大きなものは少ない |
チャート | 22(7%) | 90(69%) | 石器を採った残りの「石核」らしき ものもある |
頁岩 | 13(4%) | 0(0%) | 瑪瑙(めのう) | 0(0%) | 1(1%) | 透明感があり、 装身具用にも使えそう |
石英(水晶) | 3(1%) | 3(2%) | 千葉県では水晶製石器は 全く見当たらない |
鉄石英 | 0(0%) | 0(0%) | 合 計 | 307(100%) | 130(100%) |
今回、数は少ないが「めのう」1ケと「石英」3ケを観察できた。メノウは赤黄色の縞のある乳白色
で、茨城県玉川産のものに似ている。メノウで作られた石器を観察できないので、古墳時代にな
ってから「勾玉」や「管玉(くだたま)」などの装身具を作るのに運ばれてきた可能性が高い。
石英は、丸みをおびた礫(れき)状で、川を流れ下ったり海岸で波に洗われて角がとれたものだ。
石器の材料として持って来てはみたが、水晶ならまだしも塊状の石英はチャートや黒曜石に比べ
加工性が悪いので、多くは用いられなかったのだろう。
石器材料として一番多く用いられたチャートと黒曜石には数は少ないがやや大きな塊が観察で
きた。原産地から塊で運び、この場所で石器に加工したと思われる。
黒曜石の中に、球状の「クリストバル石」【CRISTBALITE:SiO2】が観察でき、長野県の麦草峠や
和田峠あたりから運ばれてきたと考えられる。
4.2 観察した石器
今回、観察できた石器の一部を紹介する。千葉県のこの遺跡は縄文以降の特徴である多量
の土器を伴い「石鏃」、「石皿」、「磨(すり)石」、「打製や磨製石斧」そして「石棒」などが観察
できる。一方、長野県の旧石器遺跡で多い「石槍」や「ナイフ型石器」は全く見かけない。
(1) 石鏃(せきぞく)
俗に、”やじり”、と呼ばれ、弓矢の矢の先端に差し込み植物繊維で縛りつけたり、アスファルト
などの接着剤で固定して使用した。
”飛び道具”の発明によって、狩猟生活の効率が飛躍的に向上したと思われる。チャート製の
ものに比べ、黒曜石製のものは小型だ。
縄文時代も後期になると大型獣は獲りつくされて少なくなり、小鳥まで弓矢で獲るようになり、
鏃も小さなもので十分間に合うようになった。
これらの事から、この地に住んでいた縄文人は、最初は地元で採れるチャートを石器材料として
使い、後期になってはるばる長野県から運ばれてきた貴重な黒曜石を使うようになったと推察で
きるのではないだろうか。
さらに言えば、黒曜石が伝わってきたころには弓矢による狩猟の時代は終わりつつあり、採集
(漁労を含む)あるいは栽培による定住生活が営まれていたのが黒曜石製の石器が少ない理
由だと考えられる。
一番左の石鏃には、獲物に刺さった矢が抜けなくするための”返し”が2つあるように見える。以
前、この場所で同じような石鏃を観察したことがありHPで紹介したが、他の遺跡で見かけた記憶
がなく、ここ独特のものなのだろうか。
(2) 石斧
打製石斧は土を掘り起こすなど農耕用、磨製石斧は、木を切ったりするのに使われた、とされ
ている。石材は、砂岩や斑糲岩(はんれいがん)のようだ。
(3) 石皿と磨石(すりいし)
木の実など植物質食料の粉砕・製粉に「石皿」とペアで「磨石」が使われた。旧石器時代に
は少なかったが、縄文時代早期以降日本列島で多くの遺跡から見つかるようになり、特に縄文
時代中期以降に多くなる。
石皿は栗(クリ)やドングリなどの堅果類、クズやワラビなどの根茎類の粉砕・加工などに用い
られた。今回、妻が発見した石皿は多孔質でざらざらした感じの「安山岩」系の石が使われている。
側面(断面)を見ると、上下両側から磨りこまれ、大切に使われたことをうかがわせる。
側面から(断面)
磨石には、表面が滑らかな「石英安山岩」系を使ったものと、多孔質でザラザラした感じの「輝
石安山岩」系があり、用途や石皿との組み合わせによって使い分けていたようだ。
大きさも大小あり、手の大きさや、使いやすく小さくなるまで使い込んだ、と思われるものもある。
写真のものは、手に持つと”ズシリ”と重く感じる比較的緻密な「安山岩」系の岩石で作られてい
る。
(4) 用途不明の石器
どこの遺跡でも同じことだが、「これは石器だろう?」とか「石器だとすると用途は何だったんろう」
と考え込ませられる石に出会う。今回も2つあった。
下の石は、海岸や川岸で普通に見かける”小石”だ。大きさは、全長が8センチ強で、手に持っ
て何かを叩くのにぴったりの形状をしている。赤丸 ○ の部分は、何かを叩いたらしく、”すり減っ
て”いる。
これは、黒曜石などの塊(石核)から剥片を掻きとるときに使った「叩き石」ではないだろうか。
もう一つは、先に紹介したチャート製石鏃2ケと一緒に狭い範囲から出てきた石鏃のような石
器だ。先端が欠けているようなので、これを復元した画像と並べて紹介する。
以前アップしたページを繰ってみると、これはその形から、『菱形鏃』あるいは『柳葉鏃』と呼ば
れる種類のようで、以前もここで1つ観察したことがあった。
”返し”を2つもつ鏃と同様、この遺跡の特徴のようだ。
・ 石の「用と美」
( Usage and Beauty of Stones , Chiba Pref. )
4.3 観察した土器
ここでは、縄文から古墳、さらに中世(?)までの土器(陶磁器)が観察できる。そのほとんどは
破片だ。今回、壺かなにかの底の部分に、これを作るときに下に敷いていた敷物の”編み目”模様
が押し付けられたものがあった。
妻の話では、土器を作るときに、下に敷いた”ムシロ”の編み目や米の粒(籾:もみ)が写っている
ものもあるらしい。
”ムシロ”は、稲の茎を編んだ縄を縦糸にして、稲の茎を横糸にして織ったものだからもっと目が
細かいはずだ。稲作を知らなかったはずだから、当然だ。
水辺に生える葦(ヨシ)か竹などを細く割いて編んだ、”アジロ”のようなものだったろう。
味噌をつけて食べると、縄文人も野蒜を食べていたんだろうなと思いめぐらす。なぜなら、万葉集
にも「蒜」を詠んだ歌が数多く残されているからだ。
「 醤酢(ひしおす)に 蒜(ひる)搗(つ)き合(か)てて 鯛願う
我にな見えそ 水葱(なぎ)の羹(あつもの) 」
巻16の3829 長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)
『地球一周の旅』に出かけるにあたり、気になっていた「MH農園」にトマト、ナス、ピーマンなどの苗
も植え終わり、心置きなく明日出発できそうだ。
スーツケースには、文庫本の「万葉集」を忍ばせて。